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キベラスラムのソウェト地区強制撤去

皆さんご心配いただきありがとうございます。
キベラスラムのソウェト地区で昨日、1月12日に強制撤去が行われました。

マゴソのソーシー先生の家が半壊の状態になりました。が、ソウェトのすべてが撤去されたわけではなく、とりあえず「ここまで」というボーダーラインがあり、ソーシー先生の家はちょうどその境界線上にあり、一部撤去されたけれども、「それから家をちょっとプッシュして安全圏のほうへ寄せた」と。(本人談。)半壊した状態でその境界線の向こう側に家財道具など寄せて、そしてまわりをすぐにそのへんのトタンなどで囲った、という状態らしいです。
ソーシー先生には奥さんと子どもが3人いて、そのうち2人はマゴソの生徒です。
昨日は、ソーシー先生はすでにマゴソに来ていたのですが、撤去がはじまったと電話で呼ばれ、あわてて家に戻り、おおわらわの状態でしたが、夜中になんとか「大丈夫だ」との確認が取れました。

さてマゴソの面々ではあとオギラ先生がソウェトの住民です。
数年前にキベラでupgrade housing
プログラムがはじまったとき、まずはソウェト地区をABCDの区画に分け、それぞれの区画で住民の調査が行われ、IDを持っている人に対して番号札が配られ、その番号に応じて改良住宅への入居が可能になるという話でした。
2009年にまずはソウェトのAとBから改良住宅に入居し、ソウェトABを撤去しました。
その改良住宅は、団地のようになっていて、中は3ベッドルームのユニットになっていて、その1ユニットにある3つのベッドルームをひとつひとつ別の家族に提供するという形になっていました。とても狭い部屋です。その部屋ひとつを1000シリングの家賃で、3部屋ある1ユニットに1つの台所になる共同スペースがあり、トイレと、シャワーがある。という作りになっています。
本来なら、すべての世帯にこの改良住宅が提供されて移住が完了してから撤去されるべきでしょうが、実際には、番号札を渡されていた人でも、この1000シリングが払えないために入居を辞退した人、この団地に移住したら生活の糧を得るための仕事が得られないから入居しなかった人、IDがないため番号札をもらえず、入居の資格をもらえなかった人、など、多くの人が改良住宅には入居しませんでした。改良住宅は近代的なアパートですので、薪や炭の使用は禁止で、生活燃料はガスか電気を使わねばならず、そのために十分なお金がないため、改良住宅には住みたくない人もいました。また、いったんは入居したが、1部屋1000シリングの家賃が払えず、スラムに戻る人々もいました。
長屋暮らしで人口が密集しているスラムでは、道端で野菜を売ったり食べ物を作って売ったりするだけでもなんとか日々の糧を得るギリギリの収入が得られるが、人口過密ではない団地では、収入は3分の1程度になってしまった、これでは生活できるわけがないと嘆いている声も聞こえました。
その反面、余裕があるような人々や、上層部の人にコネがある人々は、1世帯1部屋であるべきところを、何部屋も権利を得て、値段をあげて賃貸して儲けるということをする人たちも出てきました。そして、最初は1000シリングの家賃で部屋の権利を得て入居した人たちの中でも、それでは生活できないから、その部屋を貸出し、自分はスラムに戻るという人々が多く出てきました。
そのため、最初に撤去されたソウェトAとBにも、またしばらくすると、人々が戻り始め、あいているところにまた掘っ立て小屋を建ててすみはじめました。秩序がなくなったのでこの地区の治安は非常に悪くなりました。

今回撤去されたのは、このソウェトAとB、および、新しくソウェトCも撤去され、ソーシー先生が住んでいたのはソウェトCです。
オギラ先生が住んでいるのはソウェトDですので、昨日は撤去はそこまでおよびませんでしたが、次いつさらなる強制撤去がやってくるかわかりません。すぐに来るかもしれません。
新しく住める家を見つけるのは非常に困難になっています。空き部屋がないし、家賃が高騰していて、引っ越し先を見つけるのは至難の業です。
昨日はソウェトCで学校も撤去されたとのことですが、半分撤去されたところで、怒る住民たちが妨害し、半壊の状態でストップしたとのことです。
しかし小さな寺子屋式学校はいくつも撤去されたところがあったでしょう。

以前からお話してきたユニスさんとシェリルちゃんは以前はソウェトAに住んでいました。ユニスさんがIDを持っていなかったので、番号札をもらうことができず、改良住宅ももらうことができませんでした。しかしいずれにしても、たとえ改良住宅をもらえたとしても、ユニスさんには1000シリングの家賃を払うことはできなかったでしょう。
(ユニスさんとシェリルちゃんは今ではマゴソに住んでいます。)

強制撤去もいくつかの種類があり、なんのための撤去かによって、どこの省庁が扱っているかが違ってきます。
今回の撤去は、スラムの住環境整備のための撤去です。(他に行くところがないのに!)
これから先、鉄道の周辺も撤去される予定ですし、あとは道路建設のためにその経路にあたっているところは撤去されることになっています。
ナイロビの渋滞緩和のための交通網整備のいろいろな道路建設がさかんに行われていますが、その一環として、すでに作られているバイバスへのアクセス道がキベラの中を通ることになっているので、そのための強制撤去が間もなくはじまると言われています。
その経路は、マゴソとは微妙にずれているため、今のところはぎりぎりセーフという位置です。(ヤヤセンターのほうから、ンゴングロードのウチュミとナクマットの間の露天を通り、そこからマキナを抜けてフライオーバーで線路を超え、フリーダさんの産院の横あたりを通り、ランガタロードまで抜ける。バイパスにコネクトする道です。)
この道路ができたら、キベラスラムの奥にもさらにアクセスがよくなるでしょうから、ブルドーザーも入りやすくなり、撤去がしやすくなるでしょう。

今年(2012年)は5年に1度の大統領選挙の年ですが、はたして8月に選挙が行われるのか、12月になるのか、もしくは今年はできずに来年になるのか、いま喧々囂々と議論がされているところで、遅々として決まりません。
そもそもがいつもの例で、選挙の前になるとこうして、それまで遅々として進んでいなかった道路建設や撤去やこのような整備や開発が、急にすごいスピードでとんとん拍子に進んでいくものです。やはり、票の獲得を意識したパフォーマンスというか、これだけ活発に仕事をしていて国民のために立派に働いているということを世間にアピールするために、やたらとこのようなことが活発に進んでいきます。
しかし本当に、底辺の人々の暮らしや命の重みというものは、まったく実感されていない、そこにまるで人がいないかのような扱い。いったいこんなことが、なぜこんなに当たり前のようにまかり通ることができるのでしょうか。信じられないことばかり起こります。

政府の意向としては、今年中にもケニア中のスラムをすべて解体していくということだそうですが、そこから放り出される人々が行く場所もないのに、一体どうしろというんでしょうね?
それでも黙々と生きていくしかないので、撤去されてる横でも、何とか今日の生きる糧を得るために働く人々がいます。

そして私たちマゴソスクールも、今後どうするかほんとによく考えねばなりません。スラムの中にありますので、いつかは撤去されても仕方のないことはわかっていましたが、その撤去がやってくるスピードがどの程度か、それまでの時間でも日々の活動、子どもたちの救済、子どもたちが安心して集まって勉強して日々暮らせる場所を作り続けていくことには意味があると思って黙々と続けてきました。
でもかなり目の前の現実として突きつけられているように思います。幸い、マゴソの位置的には、簡単に撤去がここまで入り込んでくることはなかなかできないような奥地にありますので、(今回撤去が行われたソウェト地区はキベラのはじっこにある)、ここまで来るにはまだまだ相当の時間はかかるだろうとみんなが言うものの、でも実際には、壊すことって本当に一瞬で可能なんですね。やろうと思えば、全部を撤去するのだってあっという間でしょう。

スラムの外に、安全な場所に、マゴソを作ったほうがいいのではないかと何度も言われてきましたが、でもやっぱり、スラムの中にあるということがとても大きな意味がある、スラムの中にあるからこそその周辺の子どもたちの生活がよくわかり、助けを必要としている子どもたちの姿が見えて、困った人が相談にも来やすい、子どもたち自身もアクセスがいい、そんな条件にあるマゴソです。
たとえ撤去がやってきたとしても、マゴソの子どもたちを守ることができるような方法を、いつも考えておかねばならないと思っています。私たちには500キロ離れたミリティーニ村にジュンバ・ラ・ワトト(子どもの家)がありますが、村の長老にわけてもらったこの土地でさえ、モンバサの工業地帯の拡大、港の拡張に伴い、押収されていき、この数年の間にかつてののどかな村が見る影もないくらい、スラム化してしまいました。マテラ長老のかつての集落も、強制立ち退きさせられてからあと、今ではそのまわりを高い塀がめぐらされており、何やらよからぬ公害を排出する工場になっています。美しかった丘は、拡張されていく港をサーブするためのコンテナヤードになるため、周辺にすでに杭が打たれ、何も持たない村人たちがどんどん立ち退きさせられています。

これから先、いったいどうなっていくのでしょうか。
でも何があっても、気持ちだけはいつも前向きに、明るく、一日一日をしっかりと生きていきたいです。

先日、年末に大阪の釜ヶ崎を案内していただいたときに、日本の高度経済成長期を支えて一生懸命働いてきた労働者の人々が、バブルがはじけてから一気に仕事がなくなり、野宿者にならざるをえなかった状況などについていろいろなお話を聞かせていただきました。身寄りもなく、帰る田舎もなく、野宿者にならざるをえなかった年配者の方々をたくさんお世話している、素晴らしいママに出会わせていただきました。彼女が涙ぐみながら語ってくれた話。そんなおじいちゃんたちが、「俺たちが山の中に鉄柱を立てていく仕事をしていたんだ」と話していたと。いったい何のための鉄柱?と聞いたら、それは、日本のすみずみまで、電気をゆきわたらせるための送電線のための鉄柱だったのだ、と。
そうやって底辺で働く人々、山の中で鉄柱を立てていった人々がいたからこそ、今の日本では、すみずみまで、どこにいっても電気があるのね、それなのにそうやって日本の発展のために一生懸命働いてきた人が、高齢者になっていまなぜ野宿者になったりしなければならないの、と、ママが涙ぐみながら笑いながら話してくれた内容を聞きながら、なんだか胸がいっぱいになってしまい、なんの涙かわからないような涙が出てしまいました。
釜ヶ崎は、なんだかとってもキベラに通じる、下町人情があり、案内してもらいとても楽しく、また行きたい、またこの人たちに会いたいと何度も思ったのでした。特に、90代、80代のおじいちゃんたちの笑顔のすばらしかったこと。どんな苦労やどんな喜びがあったのか、どんな人生ドラマがあったのか、またお話を聞かせていただきたいです。

早川千晶
by moro_kyoiku_kikin | 2012-01-15 10:28 | 千晶のつぶやき